《生い立ち》

 

1983年12月生まれ。

中流階級の家庭の第二子として生まれる。

祖父が印刷会社を営んでおり、一人っ子の母のもとに跡継ぎとして父が婿入り。

6歳年上の兄とカナリ仲がいいが、同じ家庭で育った事が疑われるほど性格は真逆。

2006年4月、22歳の若さで交際2ヶ月・7歳年上の彼氏と突然入籍。(しかも当時学生)

お互い結婚願望は薄く将来の話だと思ってたのに、なぜ入籍の流れになったのか未だに不明。

子供が大好きな夫の懇願をかわし続け、まだまだ自分の時間を謳歌したい私に

今のところ出産予定は無い。

ちなみに私はうるさくてかわいいなんて微塵にも思えない子供が大嫌い。

 

 

―幼少時― /0〜12歳頃

とにかく警戒心が強い子だった。

3歳くらいの頃

「お名前は?いくつなのぉ?」ありがちな大人から子供に問いかける言葉。 そのとき私は

『お前こそ誰だ・・・自分から名乗れ!』くらいに思っていたことを鮮明に覚えている。

全く愛想のない私に困り果て「ユリコですーって、ほら!3歳だよね〜?」と代弁する母。

そんな唯一の味方だった母のスカートの裾を離さず、泣きじゃくって登校拒否した幼稚園。

小学校に入って2ヶ月を迎える頃、格好のいじめの対象になった。

忘れもしない、彼女の名前は友子(トモコ)。

まぁイジメって言っても小1レベルだから、

ノートに落書きされるとか仲間はずれにされて輪に入れないとか、そんな程度だったけど

子供の心は深く傷ついたわけです。

でも、これがおそらく私の人生で最大の転機だったと思う。

 

『せかいは、いじめるか・いじめられるかなんだ。 がっこうでおかあさんはまもってくれない。』

 

だったらいじめる側になってやる!・・・そんなところでしょう。

2学期後半からは腹のそこで“バーカ!お前なんか死ね!”と思いつつ

「あたしともちゃんにいやなことしちゃってたんだったらごめんね。」と、和解。

2年生、3年生と成長するにつれ、気が付けば友達の間ではリーダー格の存在になっていた。

女子にモテだしたのもこの頃からだと思う。

 

 

―中学時代― /1215歳頃

中学に入っても警戒心の強さから人見知りがひどかった私は、しばらく友達が出来なかった。

2ヶ月過ぎてやっと出来た友達は全員バレーボール部。

運動なんて短距離走くらいしか出来なかったあたしだけど、つられて入る流れになり・・・

その“体育会系”の選択が、またあたしの人生を大きく左右した。

その後は友達がいなかったのが嘘のように、みるみるクラスの中心核となり学級委員就任。

中2の頃はクラスからの信頼を得る仕切り屋女3人組を結成し、バカ女担任に反撃を開始。

担任は泣いて職員室へ退却し我々は勝利するも、翌年のクラス分けでは3人バラバラだった。

 

 

―高校時代― /1518歳頃

私立の高校に進学。

バレーも勉強もやりたくて選んだ学校だったはずなのに、バレー部は「とにかくバレー最優先!」という

考えが当たり前になっていて、メンバーも偏差値が無くとも入れるスポーツ推薦の生徒ばかり。

腰を痛めたことと、勉強とバレーのバランスに対する考え方の違いについていけず退部。

その後バドミントン部も経験してみるものの、目的の一つであったバレーを失ったことで

高校生活が全く納得のいかないものとなり、転校を決意。

成績もクラスで5位以内に入ってたし、また学級委員に指名されたエリートだった私に周りは

「なにが不満なの!?」とばかり言ったけど、私にしてみれば充実しない日々に不満しかなかった。

高1の冬休みに欠員が出た都立高を受験、3学期から転校した。

出来上がったクラスに入るのは非常に難しく、他クラスで地元が同じ友達の前で泣いた事もあったけど

一度泣いた後からは『みせかけの友達ならひとりの方がよっぽどラク!』 そう思うようになった。

高2からバレー部に入るも最初は受け入れてもらえず色々と努力をした。

次第に、独特なキャラクターといつのまにか定着した『ユリ様』というあだ名で、隠れ注目キャラとなった。

 

 

―専門学校時代1― /1821歳頃

高校卒業後、医療系の専門学校(3年制)に進学。

将来はスポーツトレーナーになる事を目指した。理由は“バレーボールとつながりを持っていたいから”。

柔道整復師という骨接ぎの資格を目指す専門学校に進学した。

本来トレーナーには鍼の免許が必須で私自身の興味も鍼にあったのだが、

柔道整復師は医師以外で保険を使える唯一の資格で国家試験がこの先どんどん難しくなっていくこと、

専門学校には珍しいバレーサークルがあったこと、などを理由に柔整師の資格を先に確保し

その後更に鍼灸の学校に進学するつもりでいた。

このバレー部でもキャプテンとなり、納得のいかない審判や感じの悪いチームに

積極的にヤジを飛ばす等して、謹慎処分も受けつつ・・・全国大会に出場するなど楽しい時間を過ごす。

人生で一番バレーが楽しかった時間だった。

また学校が午前中のみだったので、午後は治療院に勤務しマッサージ治療のキャリアを重ねた。

 

 

―専門学校時代2― /2124歳頃

無事、柔整師の国家試験に合格し、卒後は都内の鍼灸学校本科に進学した。

柔整も鍼灸も開業権がある資格なので、一度就職した人が人生を変えに再入学する事が多く

新卒者より社会人の方が圧倒的に多い。

ひねくれた性格と大人びた落ち着き方から同い年の友達はできず、年上とも一線置いた柔整学校時代。

それもこれも私の根底にある『みせかけの友達ならいらねぇ!』が起因し、友達を作る気が無かった。

鍼灸学校でもそれは変わらず、当たり障り無い対応で適当にやり過ごした。

基礎技術を会得した会社が傾き4年で退社した後は、色んな治療院をかけもちしたり、タイマッサージやアロマセラピーのセラピスト・講師なども経験した。この業界は「3年で一つの技術が完成する(節目を迎える)」といわれるだけあって、4年間じっくり仕込んでもらった指圧の技術は別の治療院に移っても難なく受け入れられる私の財産となった。

 

22歳のとき技術的にカナリ伸び悩んだことをきっかけに、タイへタイマッサージの修行に出てみた。

思い立ったが吉日!と、とにかく旅立ったバンコクの地で日本人バックパッカーに出会い、

治療家としての目標だけでなく、”旅”が人生の目標の一つに加わる。

私の人生が大きく変わり始める。

おそらく“6歳のイジメ”以来の、第二の人生の転機だっただろう・・・。

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